川井: | よろしくお願いします。
|
|
荻野: | こちらこそよろしくお願いします。
|
川井: | まずはパソコンとの出会いを教えていただけますでしょうか。
|
|
荻野: | パソコンとの出会いは、MZ-700というマシンなんです。私、新潟の出身で田舎の男の子って基本は表で遊ぶじゃないですか。なので、あまりそういうのとは縁がなかったんですけど、小学校5年のときに自転車で転んで骨折したんです。骨を折っているので野球とかできないじゃないですか。その時に退屈なので、まだ持ってなかったのでファミコンでも買ってもらうかって。それで電器屋に行ったら、隣に型落ちになっているMZ-700が売っていて、こっちのパソコンの方がいいなあって思っちゃったんです。それでセットで買うよりも安いし、こっちがいいやってことで、2万円くらいで、たたき売りされていたMZ-700を買ったんです。
|
川井: | 当時2万って格安ですよね。
|
|
荻野: | 定価は10万円くらいしたんですけど、19,800円で買えました。
|
川井: | それは安い。
|
|
荻野: | それが自分でパソコンを持った最初なんです。小学校5年生ですから、ちょっと使い方が分からなくて、MZ-700ってクリーンコンピュータって言いまして、最初、立ち上げると普通のマシン語のコンソール画面で出てくるだけで何もできないんですよ。そこからカセットテープでBASICを読み込ませて、BASICインタプリタが起動して、ようやっとパソコンの雑誌に載っているようなことができるんです。
|
川井: | テープローダー付きなんですね。
|
|
荻野: | はい、カセットテープレコーダーが内蔵されていました。BASICを起動するまで3分くらいかかりましたね。当時のパソコン少年は同じような道をたどるんですけど、ベーマガを買って出ているプログラムを一生懸命打ち込んでいました。
|
川井: | 皆さん同じですね。
|
|
荻野: | はい(笑) 作ったプログラムもテープに保存しないと消えちゃうんですけど、カセットテープも1つか2つしか買ってもらっていなくて、いろいろ消したりしながらやりくりをしていた思い出がありますね。そんなところからBASICのプログラムを見よう見真似で覚えました。最初は、ベーマガに出ているゲームのプログラムを入力して、無敵モードを作ろうとか他愛もないことをしたり、他の機種のものも載っていたので、それを移植してみようとかそんなことをしながら2年くらいはいじくっていましたね。
|
川井: | なるほど。
|
|
荻野: | その途中で、今はなき日本ソフトバンクの「Oh!MZ」って雑誌を発見したんです。ベーマガだとBASICだけでいろんな機種のことが載っていたんですけど、このシリーズは機種に特化してより深いことをやるわけですよ。そこにいくとマシン語の16進ダンプがズラーッとチェックサム付きで並んでいて、アセンブラですらないマシン語プログラムが紙面にずらっと書いてあったんです。それを打ち込んで、到底、自分でBASICでは作れないような高度なゲームができるとか、そんなマニアックな雑誌で、それにかなり熱中していました。
|
川井: | 確かにかなりマニアックですね。
|
|
荻野: | その後、中学校に入って、ぱたっとコンピュータに興味がなくなって、せっかく買って使えるようになったのに使うのをやめちゃったんですよ。
|
川井: | そうなんですか。
|
|
荻野: | ええ、でも「Oh!MZ」という雑誌だけは読み物として面白くて、ずっと買ってましたね。
|
川井: | そうなんですね。
|
|
荻野: | 小中高くらいまではコンピュータにどっぷりはまっていたというのではなくて、骨折したときに買ってもらったものを夢中で触っていたというのが原体験だったんですけど、しばらくブランクがあくんですよ。でも、その「Oh!MZ」を買って読んでいたのが結構大きくて、コンピュータの周辺知識はあって、新機種とかも頭に入っていたんでしょうね。
|
川井: | なるほど。
|
|
荻野: | SHARPは当時、MZのシリーズとX1との両方を別事業部から出していて、「Oh!MZ」はその両方を扱っていたんですけど、タイトルが入れかわって、「Oh!X」っていう雑誌に変わっちゃうんですよ。
|
川井: | そうなんですか。
|
|
荻野: | 「Oh!X」になってからも読んでいたんですけど、高校生くらいの時は、先輩達にコンピュータ好きな人がいて、僕はMZ-700しか持っていなかったので、いろいろ使わせてもらっていたんです。そしてコンピュータと次に本格的に触れるのは、1992年の高校3年生の時なんです。ASCIIから季刊のムックで「NETWORKER」というパソコン通信の情報誌が出ていたんです。パソコン通信は当時から知っていて、例えば後藤久美子さんが主演した「空と海をこえて」っていう日立製作所がスポンサーのドラマがあったりして、面白そうだなって思っていたんです。このドラマは単発でDVDも出てないのであまり知っている人はいないと思うんですけど、Wikipediaにすごい充実した情報があります。まあそんな感じでパソコン通信というのは楽しそうだなと思っていて。
|
川井: | そうなんですね(笑)
|
|
荻野: | それでその「NETWORKER」という雑誌を本屋で偶然見つけてみていたら、パソコン通信をやっている有名人っていうインタビューコーナーに谷山浩子さんが出ていたんですよ。実は私は小学校時代から谷山浩子さんのすごいファンで、本当に好きだったんで、中高と頑張ってアルバムも全部集めたくらいなんです。その谷山浩子さんがパソコン好きでパソコン通信をやっているというのも風の噂に知っていたんですが、「NETWORKER」には他のメディアで出たことのないくらいの大きな写真とインタビュー記事が出ていてびっくりしたんです。
|
川井: | なるほど。
|
|
荻野: | それで、その記事を最後まで立ち読みしていたら、記者の方が、「今回の取材のお礼をメールで送ったらすぐに丁寧なお返事をいただけて・・・」って書いていて、「え! パソコン通信をやっていると返事もらえるの?」って思っちゃったんですよ(笑)
|
川井: | なるほど(大爆笑)
|
|
荻野: | これはもう今すぐに始めなくちゃいけないなって(笑)
|
川井: | 谷山浩子さんにメールを送りたい一心だったんですね。
|
|
荻野: | そうなんです。アドレスも知らないのに(笑)、俺はもうあのパソコン通信をやらねばならないって思ったんです。それでパソコン通信に詳しかった高校の先輩に電話をして、彼の使っていないPC-8801とモデムを1万円で譲り受け、友達の家に転がっていた200ラインのモニタをもらってきて、玄関から長く電話線を引きこんでつなげて、キャッチフォンで落ちるとかいうのをやりながら、即座に買った「NETWORKER」を見て、地元に近いBBS局を探しました。
|
川井: | すごいですね。
|
|
荻野: | でも新潟県の糸魚川市という田舎だったんで、BBS局が近くになくて、遠距離電話を掛けなければならない状況でした。1ヶ月の電話代がいきなり3万円とかになって親に怒られましたね。それが復帰第一弾でしたね。高校3年のときで8月の夏休みに東京の先輩の家に行ってPC-8801をもらってきたんで、9月くらいかなと思います。
|
川井: | cho45さんのインタビューのときに、大抵の人のパソコンを始める動機はゲームかエロに違いないって言っていたんですけど、ちょっと違う感じですね(笑)
|
|
荻野: | この武勇伝シリーズを見ていても思うんですけど、サブカルチャーって大事だと思いますね。高橋征義さんでいうところの新井素子さんとか、角谷信太郎さんでいうところの映画とか、cho45とかsecondlifeでいうところの「ひだまりスケッチ」だとか。
|
川井: | そういうのありますよね。
|
|
荻野: | パソコン通信っていうのは本当に素晴らしくて、よく富山県のネット局につないでいたんですけど、他県からわざわざくる高校生がいるっていうことで結構かわいがってもらえたんです。いくらかの知識は持っていましたが、パソコン通信は初めてだったのでいろいろつまづいたりするんですよ。それにかなり型落ちのマシンを高く売り付けられていたらしくそういう意味でも苦労していたんですけど、パソコン通信に集う人たちがいろいろと懇切丁寧に教えてくれるんですよ。
|
川井: | なるほど。
|
|
荻野: | それがすごいなあって思いました。今も昔もなんですけど、やっぱりコミュニティって大事なんですよね。
|
川井: | そうですよね。
|
|
荻野: | それから完璧にはまってしまって、その時からゲームはほとんどせずにコンピュータを触っている時間のほとんどをパソコン通信に費やすようになりましたね。田舎に住んでて外を遊びまわっていた人間なので、顕著に分かるんですけど、高校3年の8月に2.0あった視力が半年くらいで0.7にまで落ちちゃったんですよ。今は0.03とか0.01とかになっちゃっているんですけどね。
|
川井: | そんなにですか。
|
|
荻野: | それぐらい急激にやりすぎちゃったんですよ。
|
川井: | はまる方なんですね?
|
|
荻野: | そうですね。凝り性の気はあって、谷山浩子さんにも急激にはまったし、パソコン通信にも急激にはまったんですけど、興味のないことには一切興味がないという感じですね。
|
川井: | なるほど。その後は、どういう風にパソコンとは絡んでいくんですか?
|
|
荻野: | 昔ちょっとやっていたので、勘を取り戻すにはそんなに時間がかからなくて、少しずつプログラムを思い出して、勉強しながらやっていきましたね。それで次にアクションを起こすのが93年の3月なんですけど、大学進学が決まって、東京に出てくることになって、引っ越しのときに家財道具を揃えるために親からもらったお金で冷蔵庫とかではなくて、X68000っていうパソコンを大枚はたいて買ったんです。
|
川井: | (笑)
|
|
荻野: | 「Oh!X」もずっと読んでいて、これが夢だったんですよ。当時は98が全盛期ですけど、X68000を使っている人たちっていうのは、ある意味の選民意識というかこだわりがある人たちだっていうのが自負としてあったんですよ。
|
川井: | 超王道ですよね。
|
|
荻野: | 特にCGのレンダリングとかをして喜んでいたりしましたね。
|
川井: | なるほど。
|
|
荻野: | あと、高校の時に旺文社と富士通が共同でコンテストをやっていたんですよね。高校生にFMTOWNSを無料で貸し出してプログラムを作って応募させるっていうものなんですけど、簡単なゲームを作って応募したら奨励賞みたいなものを受賞したんです。他の方みたいにベーマガに投稿とかはしていなかったので、ずっと享受している側にいて、そういうものを出す方に回るとは思っていなかったんですけど、割と褒められるんだなって思って、1つの成功体験になりましたね。
|
川井: | そういうことがあったんですね。
|
|
荻野: | なんでFMTOWNSに目をつけたのかっていうと、それも谷山浩子さんが、「Oh!FMTOWNS」に「気絶寸前なのらー」っていうタイトルのエッセイを連載していたんです。それは彼女がFM77っていうのを使っていて、普通にいち読者としていち投稿したのを編集者が見つけて連載企画になったらしいんですけど、それを知っていて、なんとかこの雑誌を買いたかったんですけど、田舎の高校生でお金もないじゃないですか。「Oh!X」と両方買うのは結構大変で、それで、コンテストに応募するからと言って学校で買ってもらおうと思ったんです。
|
川井: | 買ってもらえたんですか?
|
|
荻野: | はい、1年間購読しました。ちゃんと賞にも入ったので、なんとか面目も保てました(笑)
|
川井: | なるほど。
|
|
荻野: | 谷山浩子さんのエッセイはいい連載だったんですけど、「Oh!FMTOWNS」自体が休刊になって94年に終わってしまうんですよね。「Oh!X」もその少し前に休刊になっていましたね。あの頃はパソコンというかマイコン文化戦国時代というかそういったものが、下火になっていった感じでしたからね。
|