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第6回 大場光一郎氏 伊藤忠テクノソリューションズ(株)&大場寧子氏 (株)万葉

第6回のWebエンジニアの武勇伝は、JRuby開発で貢献度が高い伊藤忠テクノソリューションズ株式会社の大場光一郎氏と“Award on Rails 2006"大賞受賞者である大場寧子ご夫妻にお話をお聞きします。テクニカルアドバイザーは株式会社ケイビーエムジェイの笠谷真也CTOです。会場は、丸の内「やんも」。この2時間、私なぞがスーパーハッカー3人と一緒に過ごしてよいのだろうかと、全国のWebエンジニアの皆さんに対して申し訳ない気持ちで一杯になってしまいました・・・・・・。そんな心配をよそにお2人は、お店のサービスの十四代に舌鼓を打って饒舌に語られておりました。

大場光一郎 氏


1974年仙台にほど近い多賀城生まれ。スーパーマリオに感動し、以後、コンピュータとプログラムの世界に深くのめりこむ。専門学校卒業後、就職先であるソフトハウスのプロジェクトのために上京。そのまま東京在住に。主な活動に、

■Meadowプロジェクト http://www.meadowy.org/meadow/
■JRuby http://www.jruby.org
■emacs-w3m(shimbun) http://emacs-w3m.namazu.org/index-ja.html
■Hiki http://hikiwiki.org
などがある。2001年に伊藤忠テクノソリューションズ株式会社(略称:CTC)入社、現在にいたる。
著作は「Scarabによるバグ追跡システム オープンソースITS/BTSの導入と活用」オーム社 版 2005年12月 発行 3990円(税込)付
技術評論社の「Java Expert #02」「JRubyで輝くJAVA VMの潜在能力」を執筆(2007年10月 発行)




大場寧子 氏


1973年東京生まれ埼玉育ち。自宅にあったコンピュータをさわりはじめてから、ゲーム好きが高じてプログラミングに深くのめりこむ。東京大学文学部を経てジャストシステム入社。自然言語処理開発などに携わり、その後、ベンチャー企業でのCTOなどを歴任し、2007年に株式会社万葉を設立。代表取締役に就任。

2000年 モバイルコンピューティングとユビキタス通信研究会の2000年度優秀論文に選出。
http://www.ishilab.net/mbl/excellent/2000/
2002年 XMLコンソーシアム応用技術部会副部会長に就任。
2003年 XMLコンソーシアムよりXMLエバンジェリストに選抜。
http://www.xmlconsortium.org/
http://www.xmlconsortium.org/soshiki/0606-komon-evangelist.html
2006年 「小槌」がドリコム主催 Award on Railsの大賞・審査員特別賞を受賞。
http://www.kozuchi.net/
http://rails.drecom.jp/
川井: 大場さん、こんばんは。今夜はよろしくお願いいたします。
ご夫妻: こちらこそよろしくお願いします。
川井: 今回は増井さんの紹介でこの席が実現したのですが、増井さんとはどういうご関係なんですか?
光一郎: 増井さんとは最近すごく仲良くしてもらっていて毎日チャットでしゃべっています。
川井: 増井さん、毎日チャットでしゃべっている人多いですね(笑)
光一郎: ほとんど丸1日いつでもログインしてるし、いつ寝てるのか分かりませんね(笑)増井さんを初めてみたのは、CTCのRubyのイベントだったんですが、JRubyの開発者のトーマスやチャールズがしゃべっているのに、遅れてきて一番後ろの席で講演そっちのけでMacBook Pro(マックブックプロ)を叩いていたんです。この人は誰なんだろうってとても興味があったんですよね。そのあと、笠谷さんともお会いした日本サン主催のDevelopers' Loungeで初めてお話して、この人があのMacBook Proの彼かってわかったんです。(笑)
一 同 (笑)
光一郎 そのあと、意気投合しまして、一緒に飲んだりして。それからずっとチャットで話したりしてるんですが、彼が作ったプレゼン資料のレビューを頼まれたりとか、いきなり夜中に飛んでくるんですよ(笑) そのかわりに“協力してもらった大場さん"とか彼のブログに名前を入れてもらったり、プレゼンスを高めてもらっています(笑)
川井: あの200ページくらいあるやつですか?
光一郎 レビューさせてもらったのは70枚ぐらいのプレゼンです。友人ですが、仕事の紹介などもしあったり、面白い関係だと思います。
川井: 今日の流れはですね、PCとの出会いやそれから今までのご経歴、今取り組んでいることそれから今後の方向性などをお聞きして、最後は若いエンジニアに向けてのメッセージをいただきたいと思っています。Webエンジニアとしてどう生きていけばいいのかというメッセージを出していきたいと思っているんです。笠谷さんみたいに「生涯エンジニア」という人がいてもいいし、「ビジネスしたい」という人がいてもいいと思います。私が技術があまりわかる方ではないので、今日はお二人ということもあって、スーパーエンジニアの笠谷さんにテクニカルアドバイザーをお願いしました。
光一郎: スーパーサポートですね。私の予習によると、確か笠谷さんは「生涯プログラマ」とありましたよ。
川井: あっ、そうでした。失礼しました。「生涯プログラマ」でした。これは大きく違いますよね。
笠谷: まあ、どっちでもいいんですけどね、別に(笑)
光一郎: そこが味噌でこだわりが・・・(笑) じゃあ、PCとの出会いから2人交互にお話して、そこから2人の出会いにいきましょうか(笑)
寧子: (大きく笑)
川井: なんて美しい(笑)
川井: パソコンとの出会いはいつ頃ですか?
光一郎: 小学校3年くらいのときにスーパーマリオに出会ったのが衝撃的で、親指の血豆が切れるまで遊んでたんです。こういうのをどうやったら作れるんだろって想像もつかなかったんですが、たまたま両親がとってくれていた「学研の科学」という雑誌の小4の付録についてきた「プログラムの入門」というBASICの書き方みたいなのがあったんです。四則演算とか「おはよう」とかを表示したりとか、プログラムというのはこういうものだよっていう小学生でもわかるようなとっかかりのようなことが書いてあって、これなら自分でもできるかなって興味を持ったんです。小学生の財力ですし、家にはパソコンがないし、パソコンがある友達の家に入り浸りました。でも友達の家には保存する機械がなかったのでスイッチを切ると消えちゃうので、ノートにとったりノート上でプログラミングしたりしてましたね。
川井: まつもとゆきひろさんも同じこと言ってました。ノート上でプログラミングしてたって。
寧子: 私も中学高校の授業中に内職でやってましたよ。
川井: 授業の内職で?
寧子: そう、その場にパソコンがないから紙に書くみたいに(笑)
川井: 笠谷さんは紙でプログラミングしてたって話はしてなかったですよね?
笠谷: それはしてなかったですが、PC98で作ったプログラムがスイッチを切ると消えちゃうのが悲しかったですね。
川井: それで、ご両親から中学校の卒業祝いにコンパイラをもらって喜んだって話につながるんですね?
笠谷: そうそう(笑)
光一郎: 当時、私が友達の家で使っていたパソコンはMSXでした。その後、古くなったMSX1を友人からもらったりして家でもプログラムできるようになりました。MSXはプログラムをカセットテープに保存できるはずだったんですが、家にあったラジカセが安物でノイズが多すぎて一度も保存に成功しませんでしたね。
川井: この世代の方は最初はほとんどMSXですね。
光一郎: MSXは素晴らしいマシンです。結局保存できるようになったのはフロッピーディスク付きのモデルを手に入れた中学に入ってからでしたけどね。それまでは紙に書いていましたが、紙も最初のうちはいいんですが、2ページ以降になると変更とか大変でした。
川井: MSXで実際にはどんなプログラムを書いていたんですか?
光一郎: もともとゲーム好きで、どうやったらゲームができるのかに興味があったので、シューティングゲームなんかを作っていました。MSXはファミコンに似たアーキテクチャーなので、PC88なんかよりはゲームを作りやすいんです。中学2年くらいですかね。パソコンっていうのは、CPUコアがひとつならプログラムを実行していると1つの処理しかできないんですが、ゲームでは敵も自分も同時に動いて見えるじゃないですか。あれがどうなっているのかというのとか、タイムシェアリング的仕組みみたいなものをその時に学びました。結局、敵を少し動かして、次に自分を少し動かして、弾を少し動かして、また敵を動かしてってそういう仕組みなんですよ。それを画面を書き換えるタイミングにあわせて座標を変えたりとかスプライトという背景に重ね合わせて高速表示できる機能をなんかを使っていました。
川井: 子供の時代から、すごいですね。
光一郎: でもハードウェアの制限でスプライトというのはあんまり大きくできなくて、ファミコンであんまり大きなキャラって出なかったじゃないですか。
笠谷: ドラクエで4人以上並ぶとちかちかしちゃうやつですね。
光一郎: そうそう。点滅するってのは実は画期的なことで、本来、ハードウェアの性能としては4つ以上表示できなかったのに、無理やり点滅させて機能以上のものを表示させるプログラミングテクニックなんですよ。断言はできないんですが、4つ以上並べて表示できるテクニックが出たのは、ドラクエ2かザナックが初めてだったと思うんですよね。
笠谷: そうなんだ!
光一郎: 先輩が昔、ゲームの開発をしてて、ドラクエが出る前は、「そんなに敵を出したら消えちゃうんで出せません」って断っていた仕事がドラクエ2が出てから断れなくなって徹夜する羽目になったってぼやいてましたから。すいません。あまりにオタクな話で・・・
川井: いえいえ。いいんですよ。反対に期待してますから(笑)
光一郎: (笑)当時はゲームやったり、雑誌のプログラムを打ち込んだり、受験勉強しないそんな中学生でしたね
川井: そうでしたか。期待以上のお話をありがとうございます。じゃあ、今度は選手交代して、寧子さんのお話をお聞きしてもよいでしょうか?
寧子: 私は中学生くらいから始まるんですけどね。出会いはポケットコンピュータのようなちょっと大きな電卓みたいなもので、1行だけコンソールがあって、そこにBASICを打って簡単なプログラムを動かせるようなものが我が家にあったんですよ。父に言われて分からないままに雑誌を見ながらリストを打って、数当てゲームを作ったりしてました。それは単に打ち込んで、「わーい」ってだけのことなんですけど、それが下地になってますね。コンピュータとは直接つながらないんですけど、ゲームが大好きで、カセットビジョンからつきあってて・・・・
一同: カセットビジョンがある女の子の家って・・・・
寧子: ファミコンは受験が終わってからということで、持ってる子の家に遊びには行ってたんですけど実際に入手したのは受験後でしたね。中学に入って98LTというラップトップ機を父が買ってきたんですが、他のに比べてソフトは全然入ってないし、全盛だったPC88と互換性もないしで、ゲームがやりたいけどゲームがないから自分で作ろうと思って、入っていたBASICをやり始めたんですよ。それで昔、意味もわからずやっていたことが意味を持ち始めて、自分で、“go to"とか “if文"とかで簡単なプログラムを作り始めてアドベンチャーゲームを作ったりしてました。
川井: 中学のときですよね?
寧子: そうそう、中学のときです。はじめのうちは“go to"を使いまくってアドベンチャーゲームばっかり作っていたんですけど、それも段々飽きてきて、はじめてきちんとした百人一首のトレーニングソフトを作ったんです。全部覚えたかったんですけど、何枚か苦手な札があって、下の句を出すと上の句が出るようにしたかったんです。
光一郎: 趣味が百人一首かるたなんですよ。
寧子: そうなんです。後に東大かるた会っていうのに入って、五段をとったりもしてるんです(笑)
川井: そういえば、個人のホームページにもそういうソフトありましたね。
寧子: ええ、あれは、ジャストシステム時代にWindowsアプリが作れるようになって、それらしいアプリを作ろうと思って、札をつまんで自陣に置く並べ方暗記ソフトや札覚えソフトを作ったんです。
川井: しかし、中学時代からやってるんですねえ。
寧子: そうですね。多分、女性でやってる人としてはかなり初期からやってる方だと思いますね。父が買ってきたのが98LTだったのが運命の分かれ道だったんですよ。あそこで来たのがもしゲームがたくさんある88シリーズだったら、私は単なるゲーマーになってましたね(笑)
光一郎: この人の影響で他の姉妹がゲーム好きになっちゃんたんですよ。
川井: 女性の姉妹が多いんですか?
寧子: 三姉妹なんです。受験なのに「信長の野望」とかやってたんですけど、3人交代でやっていたので、順番待ちの間に勉強できて丁度よかったりして(笑) 私が一番上なんですが、3人ともかるたやってゲームやって、一度はIT系の就職をしてます。
川井: へー面白いですね。それはお父さんの影響はあるんですかね。
寧子: そうですね、最初にコンピュータを買ってきたっていうのと、あとBASICの最初の手ほどきはしてくれたんですよね。まあ、それ以降はちょっとあれですけど・・・
川井: 娘たちに抜かれて・・・
寧子: そうですね・・・。あとはこっち(光一郎)とは反対にそういうコンピュータ好きな友達もいなかったし、家として雑誌をあまり読まないしテレビもあまり見ないし、必要な情報をどう得ればいいのか分からなくて、マニュアルだけで自分で見つけないといけなかったんですよね。まるで無人島で過ごすみたいな感じでした。BASICとかも付属のマニュアルとかあるじゃないですか、本当にあれだけで、あとは自分で見つけるしかなかったんです。でもどうしても絵が描きたくてタイルパターンとかで昔やった「n進法」とかを思い出したり。「2進法」と「16進法」はこんな風になってるんだ!美しい!とか思ってみたり(笑)98LTは、テキストエリアとグラフィックエリアが一緒で絵を描くと文字がかけなかったんですよね。特殊な閉ざされた世界でメニューの管理モジュールとかつくってやりくりとかしてましたね。
川井: こう聞いてくると、お二人は大分違う育ち方をされてるんですね。
寧子: そうですね、モチベーションは一緒だと思うんですが、こっち(光一郎)は、早くから外の世界に触れてきたけど、私の方はある意味内向的というか・・・
光一郎: なんというか、こっち(寧子)の方がある意味ハッカー気質というか・・・
寧子: そうですね、ないものを手に入れようとしますね。
笠谷: 昔ってわりとそうですよね。今は情報がありますけどね。
川井: ハッカーってエンジニアの世界では敬称なんですよね?
寧子: そうですね敬称ですね。
光一郎: 「神」のことですね。
川井: とある大手募集サイトで「ハッカー募集」って原稿を掲載しようとしたら、審査にひっかかって、この表現はNGだっていわれたんですよ。
光一郎: それは、失礼ですね。
川井: ですよね。間違ってないってわかってすっきりしました。しかし不思議な話ですよね。
川井: その後はどういうプログラマー人生を歩まれたんですか?
光一郎: 高校になると、それまでBASICしかしてこなかったので、プログラマとして仕事をするんであれば、これからは「C言語」ができないとって思って、「C MAGAZINE」とか創刊から買っていました。雑誌にかける毎月のお金が厳しかったですね。当時、学校に置いてあった端末でN5200というのがあって、N−BASICとかが動いて、その授業とかあったのですが、Cをしてたのであまり興味なくて(笑)、競馬に詳しい友人と結託して、競馬ゲームを作って友達に配ったりしました。
寧子: それって、高校の授業であったの? 女子高じゃあそんなのない! 私が高校の授業で面白かったのは、数学の数列。?のときはプログラミングに似てるって分かって楽でした。
光一郎: そこから私はコンピュータで食っていこうというのがあって、大学にいかずに専門学校にいきました。他に興味がもてずに決めてましたね。専門学校くらいからは、次はC++だとかいわれて、Cをやっと覚えたのに、もう++なのかよって思ったんですが、Bjarne Stroustrup の「プログラミング言語C++」を頑張って読んだりしてました。
寧 子 私も似たような道をたどってるんですが、受験勉強に飽きてくると、98LTで受験勉強用のソフトを作っててたんです。今の「頭の体操」みたいなものですね。
川井: 受験勉強用のソフトですか?
寧子: そうです。紛らわしい事例とかをわざと問題に出してくるソフトとかを作ってたんですが、そうこうしているうちに98LTが壊れてしまったんです。そして受験が終わったあとにめでたく98FAというマシンを買ってもらったんです。
笠谷: FAが家にあったんだ・・・
寧子: ちょっとFAを買ったのは失敗だったかもしれないんですが、私にとってはLTに比べれば、かなり標準的なものになったという印象でした。
光一郎: それは失敗だったかもね。FAというのはファクトリーオートメーションという工場向けのラインナップでマルチメディア機能がほとんど削られていたでしょう。
寧子: 大学に入ると、プログラミングの授業とかもあって、ろくに雑誌も読まないのでよく分からないんですけど、C言語をやっておいた方がいいのではというのは分かるようになって、Cはできますというようになって卒業して、C++はジャストシステムに入ってからですね。だからオブジェクト指向自体は就職してからです。
川井: さきほど、「東大かるた会」っておっしゃってましたが・・・
寧子: 東大っていっても文学部ですよ。それも国文学科! もともと古文とかが好きだったんです。日本の古代が好きで歴史にいくか文学にいくか迷ったんですが、自由度の高い文学部に流れました(笑)
光一郎: この人(寧子)は、どっからどこを切り取っても文系ですね。
寧子: 数学も受験まではおつきいあいしたんですが、やっぱり文系でしたね(笑)でもゲームを作りたいっていう情熱は衰えてなくて、迷路を自動生成して、その中をウィザードリーみたいに動き回るプログラムも作りました。
光一郎: 川井さん、ウィザードリーってイメージつきますか?
川井: いえ・・・・ちょっと・・・・。
光一郎: ほら、もっとお母さんにもわかるように説明しなきゃ(笑)
川井: お、お願いします(笑)
寧子: わかりました。たとえばドラクエとかって真上からみたような感じで動くじゃないですか。ああいうのじゃなくて、3Dで迷路の風景が見えて、1歩進むと1歩進んだ風景に見えて、右を向くと右の風景が見えるとか。擬似3Dですね。罠とかつけたり・・・ゲーム好きなものですから。あとは、ゲームをつくりたいっていう情熱はずっと衰えてなかったので、マルチペイントとかいうプログラムがあって、グラフィックが描けたんですけど、それをゲーム中にロードしてくるローダーを作ったりしてました。私としては難しかったんですけどね。
光一郎: (BASICをやっていた)その時期からバイナリーをいじるってのは難しいよね。
川井: それは、ゲームへの情熱がそうさせたんですか?
寧子: そうですね。
光一郎: そうでないとオートマッピングとかしないよね。
川井: 今でもゲームとかしてるんですか?
光一郎: かかさずしてるよね。
寧子: 日課かな?
川井: どんなものをされるんですか?
寧子: ネットゲームやシミュレーションとかですね。
川井: 例えば何を?
寧子: 今日もこの「CRISIS CORE」を買ってきたんですよ。FFはあんまり好きじゃないんですけど、どう考えても好きなキャラが出てて、この人に会いたいっていう状態になってて(笑)
笠谷: 誰が好きなんですか?
寧子: まだ顔しか見たことなくて名前はわからないんです(笑)
川井: そろそろ時間も危なくなってきたので、光一郎さんの専門学校時代のお話をお聞きしてもいいですか?
光一郎: はい。専門学校に入ったら、学校から全員に98ノートが支給されたんですが。モノクロ8階調でCPUがV30ってチープなやつで、グラフィカルなPC98のソフトとかは動かなくて、ノート専用の松とか一太郎だけしか使えなかったんです。BASICの授業にはそれでも十分だったんですけど、ちょうどその時にWindows3.1が出て、付属のゲームについてきたマインスイーパーにはまっちゃんたんです。
川井: あれははまりますよね。
寧子: うちではマインスイーパーでボタンを押しすぎてこわしちゃいました(笑)
川井: あれは最初の数発が勝負ですからね
光一郎: 仕組みは単純なのにこんなに面白いゲームがあるのかって思いましたね。でも、みんなのマシンじゃ動かないからって、皆のマシンでも動くやつを作ろうって思ったんです。あのパネルをめくる際のアルゴリズムを考えるときに再帰処理とかを覚えたりしました。普通の手続きでCを書いているとあまり使わないんですけどね。
寧子: 再帰って最初にわかったときに本当に感動するよね。純粋な再帰だと最初に1つをたたくと全部いくとか、ちゃんと条件を書けばちゃんと帰ってくるけど、ちょっと間違えると帰ってこないとかぎりぎりの感じがすごく面白くて大好きです。
光一郎: (わかったときの)あれは素晴らしいです。何か降りてきたみたいな感じでしたね。で、マインスイーパーはCで書いたんですが、「C MAGAZINE」を読んで感化されていたのか、当時はC言語のANSI C規格に厳密に準拠してるかとか、いろんなプラットフォームでコンパイルできるかとかに興味があって、画面を制御するような部分やキー入力とか爆弾のキャラクターとかそういう部分がマシンに依存するので、そこを抜き出してライブラリにして、メインのプログラムはどんな環境でもコンパイルできるようにポータブルな状態にして、抜き出したライブラリの部分だけ各プラットフォーム専用に用意するような形をとって、同じプログラムでX68000とPC98のどちらでも動くようにしたのが面白かったですね。簡単なものなのですが、1つの環境だけで見てるだけだと分からないバグを片方で再現したりしてデバックにもなったりしますね。
寧子: 今、JRubyやってるけど、ある意味すごく似たような視点が必要だよね。
光一郎: そう、根底は一緒。そんな感じでCをずっとやってたんですが、専門学校では皆、情報処理試験の対策でCASLって簡易なアセンブラをやるんです。でも私は一人でC言語を選択して・・・合格したんですが、あとで「俺が教えた2年間をなんだと思ってるんだ」って先生に首を絞められましたね(笑)
川井: 就職は地元ですか?
光一郎: そうですね。地元のソフトハウスに就職して、半年後に東京に出ました。
川井: 常駐先が東京ってことですか?
光一郎: そうですね。そのまま東京に住み着きました。このソフトハウスではいろいろありました・・・でもよかったのは、営業支援から設計〜開発〜納品〜指導〜保守まで一人でやれたことですかね。
川井: ワンストップサービスですね。何年くらいいらしたんですか?
光一郎: 5、6年くらいでしょうかね。結構いましたね。
川井: なるほど。じゃあ、そろそろまた選手交代しましょうか。寧子さんはジャストシステムに入社されたんですよね?
寧子: 余談ですけど、100人くらいいた新入社員代表だったんですよ!
川井: それはすごいですね! それで入社後はどんな仕事をされたんですか?
寧子: 研修を経て、そこでオブジェクト指向とかC++に馴染んで、私は自然言語処理とか研究系の部署にいってシソーラス辞書とか構文解析とか、自然言語でのヘルプとか文系を行かせることをしていました。もともと日本語が大好きだし、大学時代に一太郎で会話するマクロを自分で改良して遊んだりしていたり会話プログラムに興味もあったのでその流れですね。その後段々、Javaに移行していきまして、Javaも覚えて、そのうちXMLというキーワードが出てきたんです。そもそも最初の配属が徳島だったんで、東京に戻りたいのと、この人の下で仕事がしたいっていうのがあったんですが、その上司がやっていたのがXMLだったんです。
川井: え、最初は徳島だったんですか?
寧子: そうなんです、いきなり徳島っていわれて、「えー、徳島!」って言って帰ってきて地図を見て卒倒しました。「ぎゃー!」みたいな(笑) いつかは東京にいきたいって言ってたんですが、結局戻らせてもらうまで4年位徳島にいました。それから無事に東京に戻って、XMLとJavaをずっとやっていて、周りがXMLコンソーシアムとかJavaコンソーシアムとかいう活動をしている人たちだったので、私も自然とそういうものに関わるようになりました。その中でXSLTに触れる機会があって、それがとても気にいってしまったんです。再帰が多いとかもあるんですけど(笑)
笠谷: 珍しい・・・
光一郎: 川井さんにもわかるようにお話すると、XSLTというのはプログラミング言語なんですが、XMLで書くんです。XMLっていうのは開始タグ、終了タグみたいな非常に冗長な形で書かなくちゃいけなくって、それだけでかなり常人離れしてまして、さらにXSLTは関数型のプログラミングモデルを持っていて、それを使いこなせるっていう人はあまりいないんです。
寧子: そもそもプログラムがどこからきてどこに去るのかがパッと見るとわからないんです。変換対象のXMLの構造に従ってXSLTのテンプレート部品が呼ばれていく非常にマニアックなものなんですけど、面白いんですよね。ちょうどその頃、「Java World」のXMLWorldっていう雑誌内のコーナーに?モードとXMLの家計簿の記事を書く機会があって、それが家計簿と私が最初に世の中に出たきっかけなんです。
川井: なんでまた家計簿なんですか?
寧子: 家計簿にとても興味があったんですが、すぐ挫折して続かないんですよね。それで悔しいんで、私でもつけられる家計簿を作ろうとしたんです。自分の勤勉さを改善するよりツールを改良させようって思い、携帯で買い物をした直後に入力すれば続くだろうと考えて携帯で作って、どうせならXMLでと思ってついでにXSLTで作ったら、ちょうどキャッチーな感じになって記事になったみたいな。
川井: それも当時としてはすごい発想ですよね。ちょうどSFA支援ツールみたいですよね。商談が終わったら直後に入力させる感じですね。
寧子: そうなんです。もう、帰ってきてから交通費とかつけるのはとてもできないんですよ。乗ったときならつけられるんじゃないかと思ってやったんですけど、当時はまだ通信費が高くて、「つければつけるほどお金がなくなる家計簿」って笑いはとれたんですけどね(笑)
川井: なるほど(笑)
寧子: でもジャスト時代は、仕事の方は自然言語処理がメインでWebアプリとかはほとんどやってなくて、趣味でPerlのCGIをやっててちょっと馴染んでたくらいでしたね。
光一郎: なんか今、驚いてたんだけど、2人でリハーサルをしてきた展開だね。
川井: つながりがあるんですか?
光一郎: ええ、そうなんです。98年とか99年とかはJavaの黎明期で、ネットのブラウザの世界では流行りそうって言われてたんですけど、当時、会社の中ではCかVBでWindowsプログラムを書くのが仕事だったんであまり手を出してなかったんです。たまたま出向で行ったプロジェクトでJavaで航空会社のWebブッキングシステムを書くっていう当時では先進的な案件をやらせてもらって面白かったんです。そのときにこれからはWebだなって思いましたね。ちなみにこのプロジェクトはちょっと呪われていて、プロマネが事故にあったり、9.11の同時多発テロ事件で航空会社が軒並み予算縮小になってしまって、想定していたゴールには及ばなかったんですけどね。そのときはソフトハウスを辞めたり辞めなかったりと微妙な時期で、オフィスが新宿2丁目にあったんですよ。
川井: 新宿2丁目ですか?
光一郎: そうなんです。「女人禁制」とかいう札があったりとかなりあやしかったんですが、ある日、仕事でちょっと遅くなって帰ろうとしたら、エレベーターホールでポリスアカデミーみたいな革ジャンの白人の男性二人が立ってまして、片方はガッチリした太っちょタイプと片方はひょろひょろの男性が抱擁をしながら熱いベーゼを交わしているんですよ。「もうこれはやばい!」って思って、非常階段をダッシュして逃げたんですけど、エレベーターの方が早いじゃないですか。
川井: ですね。
光一郎: 1Fにつくころには追いつかれて、「ダーリン!」って叫びながらを両手を広げて待ち構えてるんですよ。もう回れ右してプロジェクトルームに戻りましたね。
一同: (笑)
川井: すごい武勇伝ですね(笑)
光一郎: そのプロジェクトでたまたま一緒になった人が今のCTCの上司でして、彼にひっぱられて私がCTCに入ったんです。2001年でしたかね。
川井: CTCのどこにひかれたのですか?
光一郎: CTCはJavaをこれから推進していこうという勢いがすごくあったんですよ。CTCはどちらかといえば、SunとかSolarisのハードウェアに強いイメージがあったんですが、当時、SunもJavaを推進しててCTCもそれと協力してJavaのアプリケーションサーバーもどんどん担いでやろうとしてたんですよ。前の会社は、Webって感じでは全然なくて、パッケージソフトを作りたいとかWindowsべったりだったので、やりたいこととは大分違うなと思ったのでCTCにしました。でも一番は、その上司が素晴らしくよかったことですね。とても魅力的な上司です。
寧子: おー。
川井: まだ奥様とは知り合ってないわけですね?
寧子: もうすぐです。もう非常にすぐです。私の方がジャストシステムを辞めてあるベンチャーに移って最初のプロジェクトの時にCTCさんに応援を頼んで、やって来たのが彼だったんです。
川井: そこで意気投合されたんですね。
寧子: そうなんです。それで、ジャストシステムには5年くらいいたので、彼と似たようなタイミングで私はベンチャーに移って、主な仕事でWebアプリをやるようになったんです。当時の流行りでEJBをやったのは失敗だったと思いますけどね(笑) 以後はServletでやってますよ。
川井: その後はどんな状況だったんですか?
寧子: 私はCTOというか技術のトップとして入ったんですけど、そういうポジションにいるとなかなかコーディングができないし、やるとみんな嫌がるんですよ。その他にもいろいろあってあわなくなってきてしまいました。そして、やっぱり実装したいっていうことで辞めたんです。しばらくは、個人事業主で手伝ったりもしてましたが、実装したくて辞めてるので有給消化の頃からコーディングしたくてしたくてむずむずしているわけですよ。それで、Javaで家計簿を作りたいっていたんですけど、Javaの環境なんか作るのは面倒だし維持も大変だから自分でやればって(光一郎さん)にいわれていたんですよ。私、インフラが弱いんでそんなこといわれるとできないわけですよ。「Rubyなら作ってあげるよ」ってRailsの本を渡されて・・・
川井: 強制Rubyですね・・・
寧子: しょうがなくて他に選択肢がないんで、嫌々ながら始めたんですが、1日たったらもうご機嫌になってきて、「チョー素晴らしい」みたいな(笑)
光一郎: もうこっちはしてやったりですよ。「やればわかるだろ」って(笑)
寧子: それでジャンジャンバリバリ作ってたら、この人がドリコムの“Award on Rails"ってのを見つけてきて、申し込むといいよって言うんで、ちょうどタイミングがよかったのもあってそのまま応募したんです。
光一郎: “Award on Rails"を知ったのは、本当にタイミングよくて、もう家計簿を実戦投入したあとだったんです。
寧子: もう最初の1ヶ月でガーっと作ってて、その時には使いながら作ってたんですよ。ですから本当にタイミングもよくて第1回だからライバルも少なくてラッキーでした。Railsは本当に素晴らしいと思ったんですよね。なんで嬉しいって思ったかというと、当初は少し不自由なんじゃないかとかいろいろ我慢しなきゃいけないんじゃないかとかコードを自動生成されてそれにあわせなきゃならないんじゃないかと先入観があったんですが、実際にやってみると本格的で、Javaでやることあれこれのエッセンスと一脈通じてて、それで別に何かを強制されることはほとんどなくて、ほとんどのことは喜んで従いたいことだし、どうしても嫌なら他の道もあるし、これは泳ぎやすいなと思って、Javaでいろいろ苦労してた準備体操的なことはほとんど入ってて、すっかり好きになりました。本格的ってことが一番大きかったですね。
光一郎: 今は、Rubyの人っていう顔をしてこういうこと言ってますけど、当初はやっぱり7年のJavaの経験が捨てられないじゃないですか。相当な抵抗にあいました(笑)
寧子: 本当にJavaで作りたかったんですよ。
光一郎: うちのサーバーとして動かしているマシンのOSがFreeBSDだったんですよ。FreeBSDでもJavaは動くんですけど、その上でコンパイルするのが手間がかかって、それで1回インストールしたとしてもバージョンアップのときの維持が大変なんで限界があるなと思って、強力にRubyを推しました。サーバーだけでなくて彼女のパソコンに開発環境もセットアップしてあげて、Rubyもインストールして必要ライブラリも入れて、本も渡して全部お膳立てしてあげました。
寧子: それでもぶつぶつ言いながら、朝は行ってらっしゃーいって言って、夜帰ってきてみたら超ご機嫌でやっているみたいな(笑)
光一郎: ちょっと最初の道筋をつけてあげれば、この人はDIYなので、あとはやれるんです。
川井: なんか、2つの流れが一つになってきましたね。
光一郎: そうですね。美しい感じになってきましたね。一つ、補足させてください。Meadowプロジェクトの件です。東京に出てきたくらいで、どうしてもWindowsの開発をしなければならなくなったんですが、それまではX68000でEmacsとか使ってたんですよ。WindowsではEmacsがないのでかなり支障をきたしていたんですが、そのときにMule for Win32っていうプロジェクトがあって、これはUNIXのEmacsをWindowsに移植して動かすプロジェクトだったんです。このWindwsで動くEmacsを作った宮下さんという人がやっていて、Mule for Win32をかなり初期から使わせていただいて、私もなんとかWindows上で開発ができるようになってそこのメーリングリストに参加するようになったんです。それでMule for Win32のプロジェクトがEmacsのバージョンアップとともにMeadowプロジェクトという名前に変わったんです。
寧子: Meadow、キーワードですね。これで一番最初に世間的に名前が出たんじゃないですかね。
光一郎: オープンソースとの関わりはこの宮下さんとの関係が大きくて、Emacsのバージョン21が出て、フロントのグラフィックエンジンが全部書き換わって、UNIX上ではテキストとグラフィックデータも一緒にインラインで文字と同等に扱えて、JpegだとかPINGだとかそういうイメージ情報もワープロみたいに扱えるような機能がついたんですよ。でもWindowsに移植されたMeadowではそういうグラフィックの扱いがUNIXと全然違うので、単純には移植できなくてそういう機能がなかったんですよ。そこの最初のとっかかりというか、いろんな画像フォーマットをバッファに読み込むような機能を宮下さんに助けてもらいながら、私がImageMagickというライブラリーを使って、いろいろな画像フォーマットを読み込めるような機能を追加しまして、それをMeadowに入れました。この部分の最初のとっかかりを作りました。
川井: これでお名前が世の中に出たんですね。
光一郎: まあ、ちょっとなんですけど。Meadowプロジェクトに関してのAuthorは宮下さんですし、今、一番精力的活動しているのは三好さんという方で、私はどちらかというと最近はソースコード面ではほとんど活動してなくて、サーバー運営手伝いだとか主に宴会担当です(笑) 若い方はあまりEmacsを使わないみたいで新しい人がなかなか入ってこないんです。
笠谷: え、そうですか。Emacsは使ってますよ。MacになってからMeadowは使わなくなっちゃいましたけど。
光一郎: Emacs使ってますか? Carbon Emacsですか?
笠谷: そうです。Carbon Emacsです。
寧子: 余談ですけど、こういうバックグラウンドなんで、私、UNIXダメダメなんですけど、Emacsを使わないと家庭の危機で、メーラーとかもEmacsで動くWanderlustとかものすごく気に入らないんだけど、これを使わないっていうと離婚の勢いになるんで仕方なく(笑)
光一郎: 女性でWanderlustとか使ってるのは相当なものですよね。
寧子: でもそれがものすごく有難くって、いくらインフラ嫌いでも、こういう仕事しているとサーバーセッティングとか調査とかあるじゃないですか。でもそういうときにとにかくEmacsさえあればなんとかなる、見知らぬ空間でここだけ私の味方みたいな(笑)
光一郎: この人もEmacsが起動すればUNIXが使えるんですよ。最近、彼女の会社でパソコンを買わなくてはならないっていう状況になって、“Award on Rails"の大賞をとった後のこれからの道筋として、UnixがベースになっているMac OS Xを使ってないとRuby開発者としてのプレゼンスが上がらないんじゃないか、と勝手に思いこんでMacBookを使いなさいって言ったんですよ。それもすごく嫌がられたんですけど(笑)
寧子: そういう嫌がるときは従った方が得なんで、嫌だけどまあいいかって従いました。
光一郎: それも初期セットアップは全部私がやって、Carbon Emacsを入れて、MySQLをコンパイルして・・・
一同: (笑)
光一郎: でも、この前、MacBook使ってKeynoteでプレゼンしてご機嫌で帰ってきたよね。
寧子: 何がご機嫌って速いんですよね。コンソールとかがとても早くて、Windowsで開発するより相当時間が節約できるんですよね。やっぱ速いっていいですよね。思考が中断されなくて。
光一郎: Emacsと彼女との接点はもう少しあって2002年ぐらいにMeadowの宮下さんと呑んだ折に「これからはXMLだろう」みたいなことを言っていて、自分でも調べてみたら、確かに可能性があるなって思ってXMLにのめりこんだりしてたんですが、彼女はXMLコンソーシアムをやってて、そういう接点があって家に帰るとXMLのことで議論したりとかしてました。
川井: 家では、そういうプログラミングの話とかするんですか?
寧子: 結構しますね。喧嘩も結構しますよ。
川井: プログラミングのことで喧嘩するんですよね?
一同: (笑)
寧子: あのコードはこうじゃないかとか言われてへそを曲げたりとか、やっと出来たって思ったらなんとかプラグインを入れるといいよとか言われて、「えーまたなの」って感じでした。
光一郎: この人はないとわかると嬉々として作っちゃうんで、すでに世の中にあると分かるとへそ曲げちゃうんです。
寧子: まあ、渋々入れるんですけど。(笑)もうこれでいいじゃんみたいな。
笠谷: それわかります。自分で作りたいですよね。
光一郎: まあ、そっちの方が本当にいいやつだったら入れる必要はないんですけどね。あんまり流行ってみんなのものになるとなかなか追いつくのも難しいじゃないですか。そういうバランスがね。
寧子: よくそういう文脈で喧嘩しますね。
光一郎: 開発環境なんかもリビングの一番良いところに横に長いPCデスクでケーブルを這わせやすくしてますね。
寧子: 上に3台くらいとか下に何台かで、計5台くらいバーっと。それでアローンチェア・・・と双璧をなすLeapチェアが2台、横に並べて・・・常時ペアプロみたいな感じです。普通ならテレビとソファのところなんですが、完全にマシンのスペースみたいな。だから私はそのために西日のあたらない窓の少ないPCの配置しやすい部屋を選んではじめからそのつもりした。
光一郎: 間取り図からもうここはパソコンみたいな(笑)
川井: すごいことですね・・・
笠谷: Rubyの話を少しお聞きしたいのですが。
光一郎: CTCに入るときからRubyという言語は知っていたんですけど、当時、社内の情報共有を計るためにWikiが欲しかったんですよ。当時、そんなにWikiの実装とかってあまりなくて、目についたのがRubyを使ってたてるRWikiだったんですよ。彼女がいた会社にいったときの情報共有ツールにRWikiを採用して私がいれたんですよ。RWikiってgemで一発で入れるようなものじゃなくて、すごい依存ライブラリの塊で、しかもApacheだけで動くものでもなくて、バックグラウンドのdRubyサーバーとかが必要で分散環境で動くようなものだったんですよ。
川井: 講師なんかもされているとか?
寧子: 知らなかった。結構ヘビーだね。
光一郎: 当時、Ruby初心者としての私としては結構大変だったんですが、結構面白かったんですよ。これはRubyのすごさとはちょっと違う話なんですが、それからずっとRubyをやってます。会社の仕事ではJavaしか使っていなのですが、ちょっとしたチーム内のツールとか社内支援ものとかにはずっとゲリラ的にどんどんRubyを使ってて、私はずっとRubyを触っていた感じなんですよ。Ruby実装のHikiというシステムがあって、Wikiで編集したコンテンツをバージョン管理システムに保存する機能を持っていたんですよ。それをサポートしてたCVSというのがあったんですが、最近、使われているバージョン管理システムのSubversionには対応していなかったので、私がその対応コードを書いてパッチをHikiに送ったりしていました。最初の頃はRubyのコードも読むくらいしかできなかったんですが、そうしていじっているうちにいつの間にかできるようになっちゃんたんです。
川井: じゃあ、社内のツールを運用をしているうちに覚えちゃったみたいな感じですね。
光一郎: そうですね、あらためてRubyを勉強しなくちゃっていうのはなかったですよね。まつもとさんの日記とかは見てましたので、Railsのこととかも知ってました。0.9とかそのくらいですかね。彼女が家計簿を作ろうとしたときにちょうどRailsの1.0がでたりして薦めるにもタイミングがよかったんですよ。
川井: RubyとかRailsの素晴らしいところはどういったところだと感じてますか?
光一郎: まず、Javaより楽しいところですね。C++をやっていてそこからJavaに移行したときに、すごく身軽になったんですよね。GCもそうだし、細かい規約とか宣言とかC++を使うときの事前のおまじないとかの手順がたくさんあったりしたんですが、Javaだとそれよりは考えることが少なかったんです。でもそこからさらにRubyをやるとさらに身軽になったんです。当時は本格的にプロジェクトとかで使うとかいう発想はしていなかったんですが、日本語の情報も多かったからですかね、いつの間にかRubyにはまっていました。Pythonよりは日本語のリソースが多いですよね。あと、まつもとさんの作ったcmailっていうEmacsで動くメーラーを使っていたっていう縁もありましたね。まつもとさんに話したらびっくりしてましたけどね(笑)
川井: Rubyのよさというと笠谷さんは、柔軟性というところをあげてましたよね。
寧子: 柔軟性は大きいですよね。順番として言いたいのは、Javaから普通に入って私はRubyのよさは最初はわからなかったんですよ。最初にいじるのってフレームワークの層なので、まずRailsのよさが際立って見えて、このフレームワークはなんて素晴らしいんだろうって思ったんです。でもだんだん途中から、Rubyって素晴らしいって変わっていきました。
光一郎: Railsを使ってRubyのよさをだんだん発見していくっていうのはありますね。
寧子: そうそう、Railsに触れていくうちにRailsのコードとかも見ていくと、だからRailsが最初に作られたのねとか、こういうことをやろうとしたときにRubyは非常に都合のいい言語なんだって把握できてきたんです。自分でもプチフレームワークというかRailsの上に自分なりの何かを積もうとしたときに同じような手法でやっていくので、非常に柔軟なんだというのがわかりました。いろんな人と開発するときにも、上手く基盤を作っちゃえば効率よくいくんですけど、そういう柔軟性がとても高いので、ご利益としてどんどん生産性をあげていけるというのが上げられると思いますね。
光一郎: コード量が少なくて済むんですよね。この人も最初、全部書いてましたけど、途中で省略できるところに気がついてどんどん消したりしてました。反対にいうとちょっとしたコードで全体に影響を及ぼすのが簡単なので問題になるコードを入れるのも簡単なんですけどね。
寧子: だけど、最近、問題になるコードを書くような人はそんなところをいじらないのでそんな大問題にはならないじゃないかなって思うんです。そんな見えない信頼感でRubyっていうのは成り立っているんだと思います。流通しているプラグインとかを見てても、ちょっとソースを見てにじみ出てくる何かで、多分これはまだでこれは大丈夫かなって察知して避けて通ったりしてるんですよね。明文化はできないんですけど、ちょっとソースをみればわかるよねってレベルの人とやっていく、そんなところがあると思います。
光一郎: そう、信頼で成り立っている言語だよね。
寧子: そういうのも新しいんですよね。Javaなんかだとコードを見るのが罪悪、コードを見るのは最悪な状況っていうがあるので、大分違いますよね。そういう人にコードを読むなんて話をすると「だからRubyは駄目なんだ」ってことになるんですけどね(笑) Javaのコードを読むのは苦痛だけど、Rubyはちゃんと共通のノリで書いていれば、そんなにJAVAほど苦痛にはならないと思うんですよ。量も少ないし。
笠谷: Railsのソース読むと、次にどこにいくかわからなかったりしますけど、それはそれで面白いですよね。
寧子: なんでもありですからね(笑) 変化に富んでてそれが面白いですね。
光一郎: 私がJRubyをやってるのは、そういうRubyの面白さがJavaにエンパワーしてくれるといいなと思ってるからなんですよ。
寧子: そう言えば、JRubyをやったきかっけとか話したかったんじゃないの?
光一郎: そうでした。ありがとうございます(笑)
一同: (笑)
光一郎: JRubyを始めたのはですね。たまたまJavaで実装したRuby処理系のプロジェクトがあるよって聞いて、それを推進している人たちが単なる移植をしてるんじゃなくて、JavaVMの上でRubyのよさをスマートに引き出せる処理系を作ろうという結構大きな目標を持っているのが面白くて見てたんです。当時、たまたま彼らが、バージョン1.0を出すのにすごく注力してて、SUNのJavaOne2007っていうイベントには結局間に合わなくって、その後のRuby会議2007に間に合わせようと必死だったんです。そのときにプロジェクトリーダーのトーマス・エネボー(Thomas Eebo)から出た1.0を出すにあたってブロックになっている課題を列挙したSOSメールが目について、上げられた課題を1つ1つみていたら何だか自分でできる気がしたんです。まあ、勘違いかもしれないんですけどね(笑)それが主に英語圏の人たちが得意じゃない「国際化」とか「マルチバイト文字」とかで日本人が得意そうな部分だったですよ。だったら自分にもできそうだなあって。具体的には文字コード変換ライブラリとかとかがまったく実装されていない状況だったのでそれをJavaで実装したんです。
寧子: 彼が英語が苦手なんで私がかわりにメールを書かされました(笑)「これは日本のエンジニアにとって非常に重要なんで是非入れてくれ!」みたいな。
川井: それがブレイクスルーになったんですね。
光一郎: そうですね。多少なりとも1.0リリースの後押しができたんじゃないかと思います。1.0RC3リリースノートにも名前を載せていただきました。SOSに載っていた課題はわたしがほとんど片付けた感じだと思います。トーマスに「Super work」と言ってもらってすごい嬉しかったですね。
川井: すごいですね!
寧子: Rubyが、Cで書かれているので結局、RubyとJavaとCが全部分かるっていう条件が必要なので、ちょうど今まで歩いてきた路が無駄にならないようにできて楽しいって言ってたよね。
光一郎: まるで俺にやれって言ってるみたいでね(笑) 言語仕様とかがあるわけじゃないので、どうしてもどう実装されてるかは元のRubyのCのコードにあたらないといけなくて、それを見てJavaでは実際にどうやるかを考えなければいけないんです。それでJavaを使ってRubyのクラスをコーディングするんです。そのあたりが面白かったですね。Javaを使って実際はRubyのプログラムをしてるとか、喉から手を突っ込んでお尻を掻くようなプログラムが面白いですね。
川井: お二人の今後の夢とか、将来やりたいことなどをお聞かせください。
寧子: 私の場合は、まず、現役プログラマであり続けたいですね。その上でユーザーに喜ばれるソフトウェア、サービスを作りたいんです。特に、自分は国語が好きな反面、情報収集に時間をかけるのが苦手ということもあり、自然言語処理に関わる分野で面白いものを作りたいという気持ちが以前からあります。サービスの企画・開発でビジネスができるように会社を育てられればと思います。あと、後輩を育てたいです。特に、女性二人で会社を作ったことでもあるし、女性エンジニアを育てたいですね。女性の働きやすい環境を考えることにも関心があって、それを実現していきたいと思います。
川井: なるほど。私どもも女性エンジニアには着目していて、積極的に募集していますよ。やはり、女性の才能が生かせるプロジェクトもあるし、男女のバランスは大事にしたいと思っています。光一郎さんはいかがですか?
光一郎: 大きく注目されているRubyですが、バズワードや一過性のブームのように見られることもありますよね。そう見られるのはしかたないんですが、あえて狙ってブームにしようと煽るのは違うと思うんです。あくまでRubyが根付くように自分のできることをする。そういうスタンスに徹したいと思います。
川井: この点も私も全く同じですね。RubyやRailsが商用でも使われて、日本発の世界標準言語になるためには、Rubyエンジニアを増やすこととRubyの開発案件を増やすことだと思っています。この秋にRuby on Railsの研修事業を立ち上げようとしているのもそういう背景です。
光一郎: あと、JRubyにはまだまだ出来ることがあるので今後も積極的に参加したいと思っています。それとドラクエ風に言うと「家庭だいじに」ですかね。
一同: (笑)
川井: 最後に若いエンジニアに一言をお願いできますか。
寧子: WhatとHowというのがありますよね。Whatは「何を作るか」でHowは「どう作るか」ということで一般的には「何を作るか」はマネージャーとか上流で決めて、「どう作るか」は下流でやるみたいな感じだと思うんですけど、エンジニア的にはどちらも必要で、それが最強のエンジニアだと思うんですよ。バランスというかどちらかだけになっても駄目だと思うんです。「どう作るか」にしか興味のない人は「何を作るか」には関心がなくて「勝手に決めておいてくださいよ」っていうスタンスだったりするんですけど、そもそも「何を作るか」の前に「解決したい課題」というのもあるわけで、作り方がその課題の解決にあっているのかって視点がないと駄目だと思うんですね。反対に「何を作るか」しか考えないで「あとは工場でできるんでしょう」くらいに思っている人には所詮やっぱりいいものは作れないと思います。「何をつくるか」と「どう作るか」という両方の視点、そしてそれで課題を解決できるのかということを見れないといいエンジニアにはなれないと思います。
光一郎: チームとして全体像を共有してないと難しいよね。
川井: すごくいい話ですね。確かにそうですよね。課題解決するためにシステムを作るんですから、そこが抜けたら本末転倒で、クライアントに支持されないし、何のためにシステムを作ってるのかわからなくなりますからね。でも結構いっぱいそういうエンジニアがいそうで頭が痛いですよね?
笠谷: いますね・・・
寧子: いっぱいいますよ。勿論一流の人は両方できてるんですけどね。「どう作るか」だけの人がエンジニアで、「何を作るか」だけなのが経営者とかだったりするんですけど、上手くいかないですよね。結局痛い目を見てしまうんでね。。。
川井: なるほど。ちょっと反省させられました。。。光一郎さんはいかがでしょうか?
光一郎: 「楽しいこと」が重要なんじゃないですかね。楽しくなかったらやらないよじゃなくて、楽しくなければ「楽しくする」ことを大事にして欲しいです。私もそういうプロジェクトの進め方を模索してます。
川井: 楽しい環境を求めるとかでなくて、能動的に自分で楽しい環境を作るということですね。
光一郎: あと、これはこれからRailsを勉強されようとしている川井さんも含めて皆さんへのメッセージですが、漠然とプログラムの勉強だけを続けるのって難しいと思うんですよ。私や彼女はゲームへの情熱があって、それでやってきたんですけど、なにか簡単なものでもいいので、作りたいものを目標に置くとやりやすくなると思います。本当に簡単なフィボナッチ数列でも数当てゲームでもいいんですよ。小さい目標があってそれを積み重ねていくといつの間にか覚えていたというようなことになると思います。きっとできるようになると思います。
川井: ありがとうございます。頑張ります!
光一郎: あっ、そして最後に一言いいでしょうか。Meadowプロジェクトに若い人がきて欲しいですよ。ちょっと過疎化が進んでまして。。。メリットといえばあれですが、歴戦の兵と一緒にやりとりができます。宮下尚氏、三好雅則氏なんかは本当にスペシャルな人です。ですから是非若い方に来て欲しいと思います。
川井: わかりました。切実なものがあるように思いますので、編集しないで入れておきますね(笑)
光一郎: よろしくお願いします。
川井: 光一郎さん、寧子さん、笠谷さん、今夜は本当にありがとうございました。本当にあっという間の2時間でした。
ご夫妻 こちらこそ、ありがとうございました。2人分で大変かと思いますが、楽しみにしています。ご馳走さまでした。

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