川井: |
宜しくお願いします。
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倉貫: |
宜しくお願いします。
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川井: |
今おいくつですか?
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倉貫: |
今34歳です。
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川井: |
ロールモデルとしては非常に参考になる年齢ですよね。先日、TISの知り合いの方とお会いしたんですけど、倉貫さんはTISで技術としては第一人者だと仰っていまして、そういう第一人者の方のお話が聞けるのは非常によい機会だと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
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倉貫: |
いえいえ。こちらこそよろしくお願いします。
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川井: |
そうはいってもいきなり語って頂いても雲の上の方だと思うので、まずは生い立ちからお聞かせ頂いてもよろしいでしょうか?
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倉貫: |
はい。どのインタビューもそうですよね(笑)
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川井: |
最初のパソコンとの出会いはいつぐらいだったんですか?
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倉貫: |
一番最初にコンピューターに触った記憶は、ファミコンですね。
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川井: |
ファミコンなんですね。
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倉貫: |
小学校4年生ぐらいにファミコンを父親が買ってきまして、最初はゲームをやっていたんですけど、ファミコンのファミリーベーシックというキーボード付きのプログラムが組めるものが発売されて、それを父親が買ってきまして、子供ながらに横で見ながら覚えて、自分でプログラムを組むようになったのがおそらく最初ですね。
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川井: |
それが小学校なんですか?
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倉貫: |
そうですね。小学校4年ぐらいですね。
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川井: |
もともとモノづくりとか機械に興味を持たれていたんですか?
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倉貫: |
そうですね。機械にはあまり興味はなかったんですけど、粘土で何か作るとか、レゴとか大好きでしたね。
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川井: |
なるほど、レゴが好きだったんですね。じゃあ組み立てることとかが好きなんですかね?レゴも組み立てますもんね。
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倉貫: |
そうですね。機械機械とかあまり私燃えないんですよね。
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川井: |
じゃあソフト寄りなんですね。
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倉貫: |
そうですね、ソフト寄りですね。
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川井: |
作ってたのはゲームなどを作られてたんですか?
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倉貫: |
そうですね。マリオを動かしてみたりとかしてました。
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川井: |
へ〜。ゲームはお好きだったんですか?
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倉貫: |
そうですね、好きでしたね。
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川井: |
お父さんはそういったコンピューター関係の方なんですか?
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倉貫: |
いえ、普通のサラリーマンで、父親はすぐ飽きてやらなくなって、私だけがずっとファミリーベーシックで遊んでました(笑)
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川井: |
そういうのが許される家庭だったんですね。
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倉貫: |
そうですね。
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川井: |
なるほどなるほど。ファミリーベーシックって今までのインタビューでは初めてのパターンかもしれませんね。年齢層的にも初めてかもしれません。
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倉貫: |
ああ、そうなんですか。ちょっとなんちゃってとかに入りますかね(笑)
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川井: |
いえいえ(笑)ファミリーベーシックの次の進化はどういかれたんですか?
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倉貫: |
次の進化はどうだったかな・・・記憶にあるのは、MSXっていう家電みたいなパソコンみたいなのを中学生ぐらいにねだって買ってもらった記憶がありますね。
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川井: |
これは王道ですね。
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倉貫: |
そうですね。それで、雑誌にプログラムが書いてあるのを自分で仕込んだりしてました。
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川井: |
雑誌はベーマガとかですか?
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倉貫: |
そうです。
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川井: |
これが小学校6年ぐらいですか?
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倉貫: |
中学生ぐらいですね。
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川井: |
それぐらいなんですね。コンピューターやソフトへの興味っていうのはその後どういう風に継続されていったんですか?
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倉貫: |
なんでしょうね・・やっぱりプログラムが楽しかったんですよね。自分で書いたものが動くじゃないですか。そういう体験ってなかなかないので、それが楽しかったですね。
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川井: |
動くのが楽しかったんですね。
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倉貫: |
そうですね。
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川井: |
なるほど。何か他に運動とか趣味とかはありましたか?
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倉貫: |
特にやっていませんでしたね。
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川井: |
そしたら結構ふんだんにコンピューターに時間を使えたわけですね。
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倉貫: |
そうですね(笑)
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川井: |
へ〜。そういう感じだと、当時ってクラスの中でどうだったんですか?クラスの中にはあまりそういうタイプの人っていないですよね。大体クラスに一人か二人というイメージがあるんですけども。
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倉貫: |
そうですね。あまりコンピューターについて語り合う仲間はいなかったですね。
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川井: |
なるほどなるほど。中学校にいかれて、その後は今度はどういった進化をされていったんですか?
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倉貫: |
次は高校時代ですね。高校時代は高知県にある明徳義塾という全寮制の高校に入ったんです。寮に入ったので、高校1・2年はコンピューターから離れていました。3年生になる頃に、当時学校でコンピューター教育を取り入れていこうみたいなのがありまして、とはいえ学校の中にコンピューターに詳しい人間は教師含めて誰もいないということで、最初生徒ながらに私が手伝うことになりまして、コンピューター室の最初の室長みたいな感じで鍵を持たされたんです(笑)
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川井: |
すごいですね(笑)
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倉貫: |
だから私は自由に出入りできてよかったです。
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川井: |
なるほど。当時はどんな機械が入ってたんですか?
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倉貫: |
それはちょっと忘れてしまったんですけど、当時はレーザーディスクか何かに教育コンテンツが入っていまして、機械に入れたらコンテンツが表示されて、今でいうWPTという画面上で勉強ができるというものだったんですけども、そのOSが実はMSXで作られていたんです。いじくっているうちにそれが判明して、いろいろ遊べそうだなと思いながらやってましたね(笑)
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川井: |
それはなかなかすごい経験ですね。ちなみに生まれも高知なんですか?
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倉貫: |
いえ、生まれは京都ですね。
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川井: |
あ、京都なんですね。何でまた高知に行かれたんですか?
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倉貫: |
うちの親の教育方針なんですけども、早めに自立をさせるというのがあるんですよ。寮生活に入ると洗濯からすべて自分でやらなければいけませんので。私も弟もそうでしたね。
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川井: |
なるほど。ちなみに京都のどのあたりなんですか?
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倉貫: |
生まれたのは京都の市内なんですけども、小さい頃住んでたのは向日市という京都市の隣の市ですね。京都と長岡京の間です。
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川井: |
なるほど。私京都が好きでしょっちゅう行ってるんですよ。長岡京も行きましたよ。
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倉貫: |
あ、そうなんですね。竹藪がいっぱいですよね(笑)
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川井: |
そうですよね(笑)高校の時も部活というよりもコンピューターをやられてたんですか?
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倉貫: |
そうです。高校時代は学校の中の大学進学コースというものを受けていて、その傍らコンピューターで半分遊びをしているという感じでしたね。
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川井: |
なるほど。この頃ってもう技術やプログラミングを仕事にしようっていう気持ちはあったんですか?
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倉貫: |
ありましたね。小学校ぐらいの時にファミコンゲームやっていて、その当時ゲームプログラマーになりたかったんです。
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川井: |
なるほど。じゃあ結構子供の頃からこれをやろうというのがあったんですね。
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倉貫: |
そうですね。仕事というか、将来ゲームプログラマーになれたらいいなというのはありましたね。子供心に雑誌に載ってる募集要項とか見て、こういうところに行けばこういう仕事に就けるのかっていうのを調べたりとかしてやってましたね。
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川井: |
すごいですね。でも高校の頃からゲームではなくなってきてますよね?
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倉貫: |
そうですね。高校の時は寮生活だったので全然できずにいました。
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川井: |
その頃は職業プログラマーということを意識されてたんですか?
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倉貫: |
そうですね。プログラマーはもうずっと面白くてやっていたので、プログラマーの仕事には就きたいなと思っていました。
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川井: |
なるほど。
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倉貫: |
それがあって大学もコンピューターが出来る学校と学部ということで、情報工学科というところを選びました。
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川井: |
ちなみにどちらの大学なんですか?
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倉貫: |
地元に戻って立命館大学に行きました。実は角谷さんと一緒なんです。しかも角谷さんとは一年違いなんですよ。彼は法学部だったんですけどもね。
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川井: |
そうですよね。角谷さんは文系プログラマーですもんね。
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倉貫: |
私はもうどっぷり大学でコンピューターで勉強できるっていうので選びましたね。私も高校時代は文系の方が成績はよかったんですよ。
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川井: |
へ〜!実際勉強なんかできました?
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倉貫: |
まあ普通ぐらいですね。大学時代は、一年目は理系でも関係なくいろんな勉強をしなきゃいけないじゃないですか。英語とかフランス語とか教養系のものですね。あれはすごく苦手でした。もともと自分が興味ないことには力を発揮できないタイプで、好きなことは頑張れるんだけど、好きじゃないことは全然できないっていう人間なので、大学1年のときは危うく留年しかかりました。
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川井: |
そうなんですね(笑)
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倉貫: |
1年の年末ぐらいに単位を調べてみたら、このままではどう考えても4年で卒業できないっていうことがわかり、すごい冷や汗をかいた覚えがありますね(笑)
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川井: |
へ〜(笑)
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倉貫: |
それでこれはまずいということで心を入れ替えたんです。大学1年のときは京都の衣笠という金閣寺の近くのキャンパスで、その場所ということもあり遊び呆けていたんですけど、うちの大学が滋賀に新しいキャンパスを新設したということで、大学2年から滋賀県に行かないといけなくなってしまったんです。ちょっと騙された思いもあったんですけど(笑)滋賀のキャンパスはきれいだったんですけど、周りに何もなくて、田舎の中で勉強だけしなきゃいけない環境だったんです。さらに、2年目ぐらいからコンピューターの勉強がいろいろ増えてきたので、なんとか4年で卒業できましたね。
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川井: |
なるほどなるほど。結構昔からコンピューターをやっていると、学校でやることって基礎的なので、役に立ったという方と役に立たなかったという方とで分かれますけど、どうだったんですかね?
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倉貫: |
そうですね、コンピューター系の授業は、結構面白く聞いていましたね。
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川井: |
なるほど。どんな研究をされたんですか?
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倉貫: |
大学3年で研究室を決めるんですけど、一番人気がなかった研究室を選んだんです。そこの研究室の教授は、卒業論文については動くプログラムを1つ作ってしまえば、論文の中身はとやかく言わないっていう先生で、すごくプログラミング能力を問われる研究室だったので人気がなかったんです。私は、「あ、ここだ!もう、これしかない」と思って入りましたね。研究テーマも割と自由に決めさせてもらいましたね。私の大学4年生当時はJavaとかはまだほとんどでていなくて、C言語だったんですけど、普通だったらプログラミングの言語を打ち込まないといけないものを、今でいうドラッグ&ドロップして部品を組み立てていくとプログラムが動くという仕組みのアプリケーションを作ったんです。MDA(Model Driven Archtecture)の走りっぽい感じですね。
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川井: |
なるほど。
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倉貫: |
まあ、研究というか毎日プログラミングしていただけなんですけどね(笑)
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川井: |
やっぱり好きなんですよね。
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倉貫: |
そうですね。好きでしたね。
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川井: |
学校から家に帰ると、自然とパソコンに向かっちゃうみたいな感じですか。
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倉貫: |
4年のときは、もう家に帰らなかったですね。
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川井: |
それ以外には何かやっていることはなかったんですか?
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倉貫: |
大学でコンピューターの授業を受けて、プログラミングして、あと、バイトも1年目は寿司屋でやっていたんですけど、2年目くらいからはコンピューター関係のバイトがしたいなって思って、学部の先輩に紹介してもらったところでいろいろやりましたね。最初は、VisualBasicをバージョンアップするだけの仕事とかやっていました。当時はまだWindowsがブレイクする前で、MS-DOSの時代だったので、Basicを移植するっぽい仕事だったりとか、MS-DOS上で業務システムっぽい会計のシステムを作ったりとかしていたんですけど、この時に初めてプログラムを書いてお金をもらう経験をしました。
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川井: |
京都のベンチャーブームの前くらいですかね。
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倉貫: |
そうですね。少し前だと思います。岐阜とか名古屋の仕事とかが入って、学生ながらに出張とかしていた記憶があります。
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川井: |
(笑)
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倉貫: |
研究室に入った頃からは、大阪のベンチャーを立ち上げている若者たちを紹介してもらって、学生社長さんみたいな方とか、同年代でプログラムがすごく好きな人たちと一緒にやったりとかしてすごく刺激になりましたね。
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川井: |
この頃はもうWeb系だったんですか?
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倉貫: |
いえ、その頃はWindowsのパッケージアプリケーションですね。今もバージョンアップされて発売されている非常に有名なアプリなんですけど、その一部分を下請けで作ってましたね。
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川井: |
Webとの出会いっていうのは、どれくらいなんですか?
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倉貫: |
Webは大学院に入ってからぐらいですね。95年くらいからインターネットを知って、ホームページをつくろうみたいな感じで勉強はしていたんですけど、自分でWebアプリケーションとかはしてなかったですね。意識してやりだしたのが、大学院に入ってからですね。ベンチャーの仕事も終わって、大学院の友人とゲームを作ろうということになったんです。私はゲームからは離れていて、ちょっと遊ぶくらいだったんですけど、友人の方がゲーム好きで、私がプログラムの設計をして一緒にゲームを作ったんです。当時98年くらいですかね、作ったのはいいんですけど、自分たちで遊ぶだけだと面白くないので、インターネットで公開しようと思い、そのために本格的なWebサイトを作り始めたんです。その辺がWebにはいっていったきっかけですね。
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川井: |
Webとの出会いは衝撃的だったんですか?
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倉貫: |
インターネットの仕組みは、コンピューター関係の学部の学生だったので当然知っていたんですけど、インターネットを通じて、我々の作ったものを公開すると、日本のどこからでも世界の裏側からでもアクセスしてくれて、どんどんダウンロードのカウントも増えていって、掲示板とか置いたら、そこからフィードバックも得られていっていうのは強烈でしたね。たかだか琵琶湖みたいな田舎で作ったプログラムが日本のあちこちからアクセスされているわけですからね。
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川井: |
広く発信できるっていうこととインタラクティブ性っていうことですかね。
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倉貫: |
そうですね。今もものを作ることは楽しいんですけど、作ったものの反応をダイレクトに受け取れるっていうのは、すごく楽しかったですね。
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川井: |
そこなんでしょうね。エンジニアでもお客さんからダイレクトに反応が得られることに喜びを見出す人が多いですよね。
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倉貫: |
単にものが作れて楽しいというのではなくて、作ったものを誰かが見て驚いてくれるとか、喜んでくれるっていうのが楽しいですね。
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川井: |
なるほど。これはネットがないとなかなかできないことですよね。
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倉貫: |
できないですね。当時もゲームを作ったとしてもインターネットがなかったら長続きもしないというか面白みもなかったと思います。
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川井: |
なるほど。
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倉貫: |
我々は、そのゲームを作ったときのコンセプトからすでにインターネット頼りにしようと考えていて、割とWeb2.0を先駆けてやっていたところがあったんです。いろいろ試してみたんですけど、我々にゲームのシナリオを創る才能なんてないっていうのがすでに分かっていたので、我々はゲームを作るプラットフォームだけ提供しようと思ったんです。簡易言語みたいな感じで、卒業論文で作ったようなライブラリとかを提供すれば、インターネットの世界にはきっとたくさんの才能のある人たちがいて素晴らしいゲームを作ってくれるだろうと思っていたんです。そういうこともあって、いろんな人がダウンロードしてくれて、それでゲームを作って、またそれをいろんな人がダウンロードしてって仕組みができたんだと思います。最終的にはASCIIさんからも注目していただいて、それで1冊、本を出すこともできました。
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川井: |
それはすごいですね。
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