川井: | 就職は、新卒でTISさんですか?
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倉貫: | そうですね。
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川井: | どんな経緯で選んだんですか?
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倉貫: | 大学のコンピュータの勉強をしているうちにオブジェクト指向に出会ったんです。それまではプログラムを作ることだけが楽しみでやってきたんですけど、オブジェクト指向って設計の考え方なので、単にプログラムだけじゃないところに目を開かせてくれて、この言葉に出会った瞬間に「俺はもうこれを一生の仕事にするぞ」くらいのインパクトを受けたりとか、ベンチャーでの仕事とかゲームづくりとかもオブジェクト指向を身につけようとかいうところもあってやってきていたんです。日本でオブジェクト指向で有名なベンダーさんを探したら、オージス総研か東洋情報システム(現TIS)ぐらいしかなかったんです。それで縁があって、東洋情報システムに拾ってもらったんです。
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川井: | そうだったんですね。
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倉貫: | 実はゲームの方も当時、何十万ダウンロードっていっていたので、ビジネスとしてもいけるというのもあったんですけど、当時の私の浅はかな考えでは、大企業って新卒じゃないと入れないものだと思っていて、ベンチャーの経験はしたので、大企業を経験してそれから独立するかどこかいけばいいかなって思って入ったんですよ。
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川井: | 結構、ある話ですね。東洋情報システムは上位のSIerでしたしね。でもかなり金融系っていうイメージもありましたけど、そのあたりはあまり意識はしなかったんですか?
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倉貫: | そうですね。当時は業務では見ていなくて、とにかくオブジェクト指向っていう枠で考えていましたね。東洋情報システムでオブジェクト指向の本も出していましたし、この会社に入ったら結構面白いことができるって思っていました。自分がその部署に配属されるってことを疑っていなかったのもあるんですけどね(笑)
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川井: | なるほど(笑)
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倉貫: | もうそのつもりでしたね。金融はさらさらやる気がなかったですね(笑)
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川井: | 実際に入ってみて最初にした仕事はどんな感じだったんですか?
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倉貫: | 実は、オブジェクト指向を専門でやっていた部署が、私が入社した年にちょうど潰れてなくなっちゃったんです。
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川井: | ありゃりゃ。
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倉貫: | その部にいたエキスパートの方々がいろんな部に散るんですけども、私は最終面接の時点で専務から「お前の席はもう決まっている」みたいなことを言われていて、入った部署がもともとオブジェクト指向をやっていた部署のエキスパートが配属されていた部にOJTで入れてもらったんです。最初は先物取引のお客さんのシステムを担当してやっていましたね。
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川井: | なるほど。担当業界とかって結構変わるものなんですか?
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倉貫: | うちの場合は、結構業種のエキスパートになる方が多く、私の場合は、業種側じゃなくて技術のエキスパートでいっていたので、ある程度、どの業種でもいけたんだと思います。
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川井: | TISさんクラスのSIerになると、上流に特化していて、社員の方がソースコードを書くというイメージがないんですけど、実際はいかがなんですか?
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倉貫: | 私が入ったのが99年なんですけど、ちょうどその年に方針展開というか上流志向を打ち出して、オブジェクト推進の部署がなくなって完全に逆風が吹いていましたね。ですけど、たまたま当時は、上司がすごく技術志向の方でプログラミングもかなりできる人だったので、その人のおかげでマネジメントの仕事よりもものづくりの仕事に携われたというのがあったと思います。今でこそアーキテクトって当たり前の言葉なんですけど、当時からアーキテクトっぽい仕事をさせてもらっていましたね。
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川井: | なるほど。ある意味エリート教育を受けたという感じですかね。
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倉貫: | そうですね。その人の下に入れたのはすごく幸せでしたね。
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川井: | 当時はどんな技術をやられていたんですか?
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倉貫: | 入社して1年目は、CORBAという分散オブジェクト指向みたいなものをやっていました。まだJavaがそれほど業務で使われていない頃で、言語はC++でした。C++でオブジェクト指向で分散オブジェクトのフレームワークを設計して、今でいう大規模プロジェクトで、私が作ったフレームワークを配って、皆さん、画面作ってくださいみたいな感じです。
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川井: | オリジナルのフレームワークなんですよね。
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倉貫: | そうですね。当時はインターネットにオープンソースのフレームワークなんかなくて、C++なんで非常に特化した感じですからね。
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川井: | なるほど。そういう環境づくりに回られたんですね。
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倉貫: | そうですね。過酷な状況ですり減らされるみたいな経験は、幸いあまりしていないですね。まあ、それでも夜中まで残業して仕事はしてましたけどね(笑)
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川井: | 何年くらいやられていたんですか?
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倉貫: | このプロジェクトは長くて、2年くらいですかね。
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川井: | なるほど。
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倉貫: | 私はフレームワークを先に作って渡す方だったんですけど、我々が作ったフレームワークを使って画面を作る人たちは本当に過酷な状況だったと思います。上流で決められたものを余裕なく何も考えずに製造するみたいな状況でしたからね。
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川井: | そういう部分って外部のパートナーが担当していたんじゃないんですか?
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倉貫: | そうです。我々の作ったフレームワークの上で、パートナーさんに製造をお願いするという形でした。でも、その経験がとても強烈だったんです。私からするとこれまでベンチャーでやってきたみたいに、プログラムをするということはクリエイティブで楽しいことだと信じきって大学院まで行っていたんですけど、就職して最初に見たプロジェクトでは、プログラミングを楽しそうにしてないんですよね。フレームワークを作る側はそれなりに楽しいんですけど、そのフレームワークの上で画面を作る人たちは全然楽しそうじゃないっていうのがすごく衝撃的で、私のしているプログラミングと彼らのしているプログラミングが違うものなのかなとまで思いましたね。
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川井: | そう見えるかもしれませんね。
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倉貫: | 結局そのプロジェクトは、我々にも余波が来て、いろいろ問い合わせ対応なんかもしながら、徹夜続きで全然寝る間もなくカットオーバーを迎えることになるんですけど、そこにすごくギャップを感じて、若者なりにそのギャップについてカットオーバー後に分析してみたんです。
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川井: | どんな風に分析したんですか?
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倉貫: | いろんな人に聞いてみたところ、そのプロジェクトは最初の頃、余裕のあるプロジェクトで、要件定義や上流の頃は毎日17時半には終わって呑みに行っていたって言うんです。それを聞いて、おかしいな、下流のプログラミング行程は余裕なんて全然なかったぞって思ったんですよ。その時に気がついたのは、ウォーターフォールがよくないんじゃないかということだったんです。なんで上流の人は余裕があるのに下流のものづくりの人だけが苦労しているのか、ウォーターフォールっていう業界の仕組みがおかしいじゃないって思いましたね。
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川井: | なるほど。
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倉貫: | そのあと、大きなプロジェクトだったので終わったあとに少し時間があって、開発プロセスとかいろいろ勉強していた2年目に、会社が研修に行かせてくれたんですよ。それは、東洋情報システムとして若手で技術志向の人間をピックアップして、半年間継続的に数回オブジェクト指向の研修を受けられるというものだったんですけど、その研修に選抜してもらったんです。その研修は普通にオブジェクト指向について学ぶというものではなくて、それこそオブジェクト指向界の重鎮が来て、毎回好きなことを語るみたいなものだったんです。
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川井: | そういうセミナーだったんですね。
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倉貫: | それには強烈な印象を受けて、こういう人たちがいるんだと驚きましたね。そこで当時、オブジェクト界の重鎮である藤野晃延さんやリファクタリングを書かれた方などを紹介されたんですけど、その中に1人だけ若くて元気な人がいて、それが平鍋健児さんだったです。
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川井: | そういう出会いだったんですね。
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倉貫: | 2000年当時、平鍋さんがXP(eXtreme Programming)を紹介していていたんですけど、ずっと大規模プロジェクトで感じていたギャップとウォーターフォールとが全部つながって、XPが僕のやろうとしていたことの正しい姿ではないかと思って、勉強し始めたのが取り組みのきっかけです。
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川井: | なるほど。
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倉貫: | そこでの出会いがなかったら、今、やってないですね。
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川井: | そういういろいろなターニングポイントがあるんですね。
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倉貫: | うちの会社に入って、最初にアーキテクトじゃなくて画面を作らされていたりしたらもう辞めていたかもしれないし、大規模プロジェクトに入って経験しなければ、XPのありがたみも分らなかったかもしれないし、分らないものですね。
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川井: | 確かにそうですね。
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